私たちは常に自分をアップデートし続けなければならないのだろうか
相変わらず何もやる気の出ない日々を送っております。
やる気出すも何も、やるべきことのない日々なんですが。
毎日グータラ食っちゃ寝してて、理想的な日々やん!と思う時と、こんなんじゃダメだ…と罪悪感から気分が落ちる時があり、なんともパッとしない毎日です。
先日も、エラそーに「今日の積み上げの先に何があるのか」なんてタイトルでブログを書きましたが、明らかにやっかみ半分でございます。
目標?に向かって、キラキラ努力を重ねている若者たちが憎い!憎いわ!(乱心)
いや、憎くはないけど、うらやましい!くそう!
こんなに時間があり余っている今、私とて何か学び始めるチャンスではないのか!と強く思うわけです。
しかし根っからのグータラ魂が勝ってしまい、結局毎日食って昼寝して、猫と戯れて、と一日が終わっていくという体たらく。
そして「ああ、今日も何もしなかった…」と多少の罪悪感を抱きながら安らかに眠るという日々。
しかし…
同時に思うのは、「人って常に何かに向かって成長し続けていなければならないものなんだろうか」ということです。
なんか、グローバリゼーションだのAIだのの台頭で、ホントに不覚的要素が多い世の中、更にこのコロナ騒ぎで、更に未来が見通せなくなり、みんな不安なのもあって、スキルの習得に余念が無い。
この Quarantine 生活(ホントにピッタリくる日本語が無い。引きこもり生活?自粛生活?)の間に、語学学習だのプログラミングスキルの勉強だの、みんなが必死になるのも超わかる。(ていうか私もやるべきなのだろう…)
なんか、そうやって、常に自分を高める努力を続けることが尊いというか、むしろ当たり前みたいな雰囲気なんだよね…
その中で焦りを猛烈に感じる一方で、「こういうのが普通なんだったけ…」とも思う自分がいる。
まあ単純に考えると、たとえばかつての日本は、年功序列社会で、高卒で入社した会社にそのままずーっと勤め続けて、勤続年数と共に昇進して給料は上がるし、そのへんのリーマンでも、車買って結婚して子供作って、家建てて、定年退職したら年金で暮らして、というのが可能だったわけである。
なので、スキルアップだの転職だのと考える必要はあんまりなかったものと思われる。
まあ、過去の話をしても仕方ないのだが、たとえば現代でも、まだそこまでの先進国とか新興国ではない国の、田舎の方とかで、先祖代々農家、みたいなパターン。
職業選択の自由(懐かしい!とらばーゆ!)の問題とか諸々はあるにせよ、親から継いだ家業を、次世代に引き継ぐ、というケースの場合、やはりそこにスキルアップだのキャリアチェンジのための努力などは必要ないと思われるのである。
だから何… という感じであるが…
そんなこと言ったところで、私たちの暮らしている世の中では、現実にものすごいスピードで世界が変化し続けており、それに置いて行かれたら生活が立ち行かなくなってしまう恐れがあるので、どうしても世の中に合わせて自分をアップデートし続けていかなければならないのである。
しんどいなあ。
いや、自分を高める努力をするというのは、本来は楽しいことである。
しかし、それを常に要求される社会というのは、やっぱりしんどい気がする。
どうしたものか。
ヒントの一つとしては、この間も書いた、山奥ニートである。
あんまりおカネのかからない田舎に引っ越して、必要最低限の暮らしをするという発想である。
現代の先進国に生きるわたくしたちが、「常に自分を高める努力を続けるしんどさ」から逃れるためにできるのは、これくらいではなかろうか…
かく言う私も今、ある意味、これに近い状態ではある。
まあ、程遠いけど。
そして老後の不安という大問題があるけれど。
あとは、ベーシックインカムに期待か…
現実的な線としては、時々山奥ニートになって、時々俗世に戻る、という生活ではなかろうか。
これいいよなあ。
あとは交通費とか住居費とかの、物理的な問題がなんとかなれば…
なんて考えながら、グータラしている日々なのである。
ていうか私はこんなこと言ってないで、マジで努力を積まないと本当にヤバいのである。